月報2015年6月号「みんなで一緒に」
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2章1〜4節)」
今年のペンテコステは5月24日でした。ペンテコステというのは聖霊降臨日とも言われ、イエスの弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。けれども、この「ペンテコステ」という言葉自体には、「聖霊」という意味はありません。これはもともと、50番目という意味を持つ言葉なのです。何から数えて50番目なのかというと、それはイエス・キリストの復活の日から数えて50番目の日ということです。つまりイースターの日から50日目に弟子たちに聖霊が降った。そのことを示しているのがペンテコステという言葉なのです。
この50日の間に弟子たちは、まるでジェットコースターにでも乗っているかのような感覚を覚えました。イエスが十字架で死んだ時には深く悲しみ、それから3日目にイエスの復活を知らされると彼らは喜んだ。しかし、その喜びの中、復活のイエスと40日間共に過ごせたかと思えば、今度はまたイエスは天へと昇ってしまい、自分たちの目の前から見えなくなってしまったのです。彼らはこうして喜びから一変、寂しさと戸惑いを覚えました。しかし、それから更に10日が経ち、イースターから50日目を数える日を迎えました。すると彼らに聖霊が降り、彼らは再び喜びに満たされることとなったのです。
弟子たちが経験したこのめまぐるしいアップダウンは、私たちの日常と重なります。私たちもまた、喜びと悲しみの連続を、この人生の中で経験するのです。あるいはまた弟子たちは、ただイエスとの別れや再会を喜んだり悲しんだりしただけではなくて、イエスに対する信仰を時に疑ったり、強くしたり、そのような信仰のアップダウンを経験したのではないかとも思います。やはりこれも、わたしたちの日常と重なることであると言えるでしょう。私たちもまた、様々な出来事を経験する中で、信仰のアップダウンを経験します。ある時には燃えに燃えて信仰に生きる。しかし、ある時には信仰が冷めて、イエスや神への信頼も疑いに変わってくる。聖書に記された弟子たちの姿というのは、まさに私たちの姿であるのです。
しかしここで、私は驚くべき一つのことに気付かされます。弟子たちは確かに、喜びと悲しみのアップダウン、また、信仰と疑いのアップダウンを繰り返すのですが、このペンテコステの日だけは、ただの繰り返しではなかったのです。ここには、これまで福音書のどこにも出てこなかった表現がはっきりと記されています。彼らはイエスが昇天しその姿が見えなくなってしまったことを嘆き、大きな空虚感を覚えていました。ジェットコースターでいうところの一番低いところにいたのです。しかしその最低の状態の時に、彼らが何をしていたか。聖書にはこうあるのです。「一同が一つになって集まっていた」と。
弟子たちが、一つになって集まっていた。これは、イエスが昇天した後の、使徒言行録の中でしか用いられていない表現です。一つになってと言いますけれども、これは物理的に一つになっていたというだけではありません。物理的にも、精神的にも、肉体的にも、霊的にも、一同が一つになって集まっていたということです。心からみんなで一緒に祈っていたのです。そしてちょうどその時に、あのペンテコステの出来事が起きた。聖霊が弟子たち一人一人の上に降ったのです。
ところで、聖霊とはなんでしょうか。それは、神の力です。目には見えないけれども、確かにそこに働いている神の力、イエスの力。聖書はそれを聖霊と呼ぶのです。イエスは天に昇られ、目の前から見えなくなってしまいました。私たちも今、そのような時代を生きています。しかし、イエスは確かに今も私たちと共にいて下さり、神の愛は今も私たちに注がれている。そのことを教えてくれるのが、聖霊の力であるのです。この聖霊を受けて、弟子たちは今一度確信しました。「ああ、私たちは一人ではないのだ。イエス・キリストが、今も共にいて下さるし、何よりも、共に寂しさを分かち合い、悲しみを分かち合い、祈りあった仲間がここにいるではないか」と。しかもこの仲間たちは、神が呼び集め、与えて下さった仲間たちではないか。彼らはそのことに気づいて、勇気を取り戻し、イエスが残してくださった福音を、この世界に宣べ伝えて行く者となったのです。
教会とは、ギリシャ語でエクレシアと言います。これは、直訳すると「呼び集められた者たち」という意味を持つ言葉です。教会とは建物ではありません。神が呼び集められた者たちの共同体なのです。その共同体が、心と体を一つにして祈った時、突然激しい風が吹き世界中が驚きました。「なんだ、この人たちの力は、なんだ、この人たちの喜びは。さっきまで、固く戸を閉ざして、寂しそうにしていたあの弟子たちが、あんなにも喜びに満ちて、力強く神を褒め称え、神の言葉を語っているではないか」。弟子たちの姿を見た人々はそう思ったに違いありません。
私たちも、この弟子たちのように、世界を驚かせたいのです。この混沌とした世界に、この希望なき世界に、喜びの力を失っているこの世界に、新しい風を吹かせたいのです。「なぜ、あの教会に集まる人たちは、あんなにも力に満ちているのだろう。なぜ、あの教会に集まる人たちは、あんなにも喜んでいるのだろう」。地域の人々が、そう不思議に思って、シカモア教会に足を運んでくる。そうして、祈りの輪が少しずつ大きくなり、慰め合い、励まし合う仲間も増えてくる。イエス・キリストの救いが、その福音が、一人、また一人と伝えられていく。そんな教会を、みんなで一緒に築いて行きたい。そのために、ペンテコステの日を想い起こし、私たちも弟子たちのように、いかなる困難があろうとも共に祈りつつ、心と体を一つにして歩みを進めて行きたいと願うのです。